jou日記

コンテンポラリー・ダンサー、振付家JOUの日記です。。。Odorujouダンスパフォーマンス日記

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身体は限界を作る

人間の身体は、器。

器があるから、受け止められる反面、器は、限界を作る。

美味しいご飯も、30分も食べれば、お腹いっぱいになる。

終わりがあれば、始まりがある。

それが、身体。


一度にちっぽけな量しか食べれないのに、私達は、

どれだけの食べ物を作り、集め、奪い、そして捨てるというのだろうか。


どんな無尽蔵な快楽も、体力の終わりがやってくる。

沢山の靴を持っていても、一度に履けるのは、たった一足だ。

無尽蔵に貯めたお金も、死んでしまえば、使うこともできない。



人間の欲望は限りないと言うけれど、

身体はしっかりといつも、限界を指し示してくれているのだ。

身体の限界に耳を澄ませてみることを
たまにはしてみるといいのかもしれない。








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  1. 2013/03/10(日) 06:54:36|
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奇跡ではなく、自分で選ぶこと

ベルリンに来ると、いつも会うアートプロデューサーがいる。

彼女の醸す空気感が好きだ。

私のことをいつも気にしてくれていて、

「何かできることはないか?」

「今、どんなことをしているのか?」

会う度、興味津々に聞いて来る。



今回は、昨日のパフォーマンスを観に来てくれて

JOU即興の魅力を「自由さ、軽やかさ」という言葉で賞賛してくれたり、

鹿児島へ移って以降、初めて会ったので、

もっぱらのその話で盛り上がったりした。


セカンドホームタウンの話をすると、

非常に賛同もしてくれた。


だからといって、何か仕事や助成金にダイレクトにつながるわけではない。

その関係に、自分の作品を売るというビジネスを持ち込むことは、
自分にはどうもできないし、しない。


それが自分の弱さであり、強さでもあると思ったりもする。


人生に、これだけ、というような正解はない。


自分にとって、気持ちの良い自分、自分が好きな自分でであり続けること、

それだけが基準である。


そこを崩さずに、なんとか生きてこられているし、

活動もできている。


特別な人だけがなし得る奇跡でもなんでもない。


自分でそうしようと思って生きる、とうだけのことなのだ。











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  1. 2013/03/04(月) 04:09:37|
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わからないのラッキー

踊る地域案内所オープン!
2012/12/02 14:19 JST をぜひみてください。
当日の中継、こちらで見れます。
http://www.ustream.tv/recorded/27436863
http://ustre.am/:1R7A3
tomo-jou
オープニングイベント☆即興ダンス&演奏

今日の踊る地域案内所オープンでは、地元の皆さんのご協力、朝のお掃除、国旗掲揚、サプライズのくす玉、、、いろいろとうれしい楽しい時間でした。

いろいろな温かい気持ちにほっくりしながら、踊りながら、
ふうっと1日の終わりにお風呂につかって、「ああ、日本人で良かった」と思う。

そうして、ゆっくりと過ごしていると、言葉が浮かんで来る。

back to top踊る地域案内所←


今日のTweet羅列。。

肝付情報局のレポート
http://kimotsuki.info/pages/know/report/post-1069.html




「貴方の人生、何ですか?」と聞かれて、ひと言で答えられるのだろうか?目の前の芸術だって、同じコトなんじゃないかな。「なんだこれ?わからない」「わからないこと」があっていいんだ、ということを、私達は忘れているのではないか。

「わからない」何がどうわからない?意味が分からない?意味って何?わからないことを考える時間を、私達は、教育の中で、奪われてしまっている。学校を出た先は、わからないことだらけだというのに。

「答えは1つではない」そんな当たり前のことすら、学校の中では、忘れてしまう。「答えは1つではない」という答えを正解として、じゃあそれが実際どういうことなのか、ということまでは考える必要はないからだ。本当は、それこそ考えなければいけないのに。

「答えがわからないこと」を抱えながら、学校の後の実生活を生きていかなければならない。設定された正解の先、さらに考えること、それこそがこれからの時代に必要だというのに。

わからなくても、わからないなりに、ずっと考え続けていると、いつか、「ああ、こういうことか」とわかる。自分の言葉で、世界を見ることができる。

動きながら、考え続けること。動かずに考えるだけでもダメ、動くだけでもダメ。

何が正しいのか、間違っているのか、情報を読み取り、判断するのが難しい世の中。しっかりと自分の目で見て、自分の身体で感じて、自分の言葉で考える。わからないことを一生懸命考える。身体を動かしながら、考える。

自分1人で抱え込まないで、いろんな人と出会いながら、自分の周りの人に座布団1枚を譲り合いながら、考える。考えながらも、自分なりにやれることを、やり続ける。それがいい。

自分のため+誰かのためにも、と喜ぶ人が増えることをしていると、道は自ずと開けて来る。喜ぶ人が多ければ多い程、不思議と道は開ける。

そんなことをしていると、アイディアが次から次へと生まれて来る。アイディアが尽きることはない。湧き水のように、豊かに溢れて来る。

生まれたアイディアは、自分でとりあえず、やれることをして実現してみようと、頑張っていると、必ず救いの手に出会う。不思議なタイミングで、いろいろな出会いが重なって来る。

自分の為だけでもダメ、人のためだけでもダメ。自分の喜びでもあり、誰かの幸せでもある、そんなことばかりしていると、ほんとうに豊かな見えない贈り物が、次々とやってくる。やってきたら、独り占め市内で、必ず、座布団一枚のお裾分け。

お裾分けしていると、お裾分け仲間が自然と増えて来る。不思議と、見返りをアテにしてやると、それは絶対にうまくいかない。本当に不思議。自分の心の透明度が試される。日々、毎回。

自分の中で、ちょっとでも算盤はじいて、計算して、という気持ちが働くと、気持ちの良い流れが、パタッと止まる。そこにはいたくない。だから、自分の気持ちが少しでも濁らないように、日々、問いかける。それは、何の為にやっているのか?

誰の為に、どこに向かってやっているのか?〜今は、未来の世代にのりしろを作りたい。少なくとも今自分達の世代が抱える問題が、少しでも小さくなっているようにと。

このまま、何も考えないで、自分が本当に考えたわけじゃない価値観に流されて煽られて、進んでいく先には、暗澹たる未来の予想がつくから、そこには向かいたくないし、向かわせたくない。未来ある世代に。

もっと、創造力を自由に使えるはずなんだと。そうした時に、今の私達には想像もできない豊かな世界もあり得るのだと。本当の豊かさはなんであるか?お金では買えない本物の豊かさ。それとお金の食い違いは、なぜいつも起こるのか?

お金の仕組みが、人工的だからなんだろうなあ。。本物の豊かさは、人の中にある。人は、自然の一部。自然は、お金で整備はできるけど、本当には作れないもの。

世界は、問いかければ問いかける程、違う顔を見せてくれる。自分の中に湧いた「問いかけ」には、すでにもう、答えがついて生まれて来る。その答えがどこにあり、どんな言葉や形値なのか?それは、自分で探すしかない。でも、必ずある。

だから、「わからない」と思うことはラッキーだ。「わからない」の先に、「ではこれはなんであるか?」と考え始めることをするならば、世界は常に、新しい扉を開けてくれるのだから。

開く扉が多ければ多い程、世界は豊かに光り輝く。扉が開く前は大問題であった様なことも、新しい扉がもたらす光の中では、全く違う次元へと変容する。





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  1. 2012/12/02(日) 20:58:58|
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わかりずらいことの意義

ディズニーランド、大好き。戦隊ヒーロー、大好き。わかりやすくて、楽しいものが、皆、大好き。現実世界は、ややこしくて、大変だから、せめて、テレビやイベントは、楽しくて、すかっとするものがいい。そんな世間のし好に比べると、私達の「おおすみ夏の芸術祭」は、わかりずらいです。

すかっとさわやか、楽しいのはとっても大事だけど、「なんじゃこりゃ?」「これって、どういうことなんだろう?」考えてもわからないようなこと、わかるのが数年後だったりするようなこと、に触れて、自分なりに感じたり考える機会って、とても大事だと思うんです。

「何?これ??」わからないなりに、何かを感じたら、それがどういうことなのか、考え続けると、いつか、「ああ」と合点が行く日が来ます。そういう試行錯誤能力が、これからの未来を作るんだと。答えは1つではない。それが、現実社会だから。

「なんとなく感覚ではわかるけど、言葉にはできない」そんなもやっと感もまた、時には必要。感覚を言葉にする訓練。日本人は、本来、感覚の鋭い民族です。それが当たり前過ぎて、言葉にする訓練はしていない。皆が鋭いから、言葉にできなくても、共有できちゃうんです。

だけど、国際社会では、そうもいかない。説明ありきの英語の人達は、なんでもかんでも、上手に言葉にする訓練をしているんだと思います。わからないから、説明する。日本人は、感覚的に優秀なので、わかっちゃうけど、わかるのが当たり前と思って、自分の感覚を言葉で説明する文化がない。

言葉で簡単に説明できるものって、よくよく見ると、アメリカの輸入文化であることが多いのかもしれない。日本古来の文化や芸術には、言葉で簡単に説明し難い奥の深さがある。

農作業だって、畜産業だって、大工や左官業だって、手仕事、自然が相手の仕事は特に、感覚や直感である部分は多いんじゃないかと思います。言葉や数字だけで世界をみている机上の研究者にはわからない「現場の感覚的な何か」が、農業に限らず、これからの未来を開く重要なキーポイントなんじゃないかと思っています。

農業や自然の中の田舎の実生活で体感的にわかっているが言葉にできないことや、「え?何これ??」とよくわからない芸術的な試み、どちらも、これからの未来にとって、重要な要素であり、資源であるのだと思います。

「答えはひとつではない」ということが、現実そのものだから、沢山の現実世界のヒダヒダの中で、どこに向かって前進し続けるか? それを考える訓練の時間なのかもしれません。答えは全ていつも、自分の身体の宇宙の中にあります。

石の亀
亀のように見える庭石。「見立て」は日本人得意の想像力の1つ。






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  1. 2012/11/26(月) 07:33:32|
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Odorujouスタッフチーム@青山ダンストリエンナーレ

3年前に、初めて、フェスティバルのアテンドのお仕事を依頼されたとき

「こんなことをJOUさんにお願いするのは、失礼かもしれないけど」

と、プロデューサーに前置きされました。

確かに、舞台の上で踊る人なのに、

裏方スタッフの、しかも添乗員みたいなペーペーの仕事、

と捉えられなくもない、アテンド業務。


自分が、ゲストとして呼ばれた時に接するアテンドは、

ボランティアスタッフで、フェスティバルのことがよくわかっていないけど

とりあえず、事務局から頼まれたから、迎えに来ました〜

みたいな人もいれば、

事務局の通訳の人がフルアテンドでついてくれたりとか、

フェスティバルに寄って様々ではありますが、

下っ端でもできる仕事でありながら、

やはり、最初に触れる人間として、

重要な情報源でもあるわけです。


「自分だったら、こういう情報が欲しかった」

という経験や想像を活かして、

舞台のお客としてでもなく、

一緒に仕事をするダンサーや振付家としてでもなく

アノニマスな人間として、いろんな人に出会える場でもあります。

人間に興味がある私は、それは、自分の本業であるダンスの仕事が重ならない限りは

やることに全然、こだわりは感じませんでした。

むしろ、こう考えたのです。


「フェスティバル開催地の地元ダンサーが、

舞台の上にのれるのは、限られた回数でしかない。

しかし、折角地元で開催しているのだから、

アーティストとしてでなくても、フェスティバルの運営を手伝うという

別の立場から、イベントに関わっていける道筋を作っていくことは、

必要なのではないか?」

私自身のこととしてだけでなく、

「東京首都圏で活動するダンサー」という無数の人達のコミュニティと可能性を考えたとき

益々それは、1つの道なのではないかと思ったのです。


舞台の上にのる時もあれば、

手伝いに回る時もある。

こういうダンスコミュニティの在り方は、

実は、NYなどでは、すでに行なわれている

先例歴史のあることでもあります。


だけど、首都圏ではまだ、なかなか理解も定着もされないでしょう。


舞台の上と下のヒエラルキーは、根強く存在しているように感じます。

先生と生徒、という構造のなかで、踊りを続けざるを得ない

経済事情もあるのだと思います。


近年、スターシステムみたいなものが、できて、
先生と生徒からスターとファン、へと
裾野の広がりとともに、
広がっていっていることも影響しているのかもしれません。

スターは、裏方の仕事なんかしてはいけないですから。

でも、その中間にいる層も意外に多いと思うので、

そういう人達は、

「時には上、時には手伝い」

有機的に立場を変えながら、

手伝いの経験も活かして、

踊り続けていったらいいのではないかと、

そう思っているわけです。


そのための、実践、実験中。

Odorujouスタッフチームです。



いつも上でもなく
いつも下でもなく

臨機応変に

その場その場を独創的創造的に

人とつながること、
役に立つこと
をしながら、
踊り続けたらいいんじゃないか、
と。

視点や立場を変えて世界と関わることで、

踊るダンスも、より深く、強くなっていくはずです。







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  1. 2012/10/14(日) 22:16:06|
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セカンドホームタウンプロジェクト

セカンドホームタウンプロジェクト


2011年3月11日の震災後、私は、助けを必要とする方々と、日常からつながっていなかったことに気がつきました。
被災地に家族や親戚、友人がいたのなら、直接連絡を取り合って、本当に必要なものを直接届けることができたでしょう。
避難が必要であれば、呼び寄せることもできたでしょう。しかし、日常生活の中でつながっていなければ、非常時に助け合うことができない。今からでは遅いかもしれないけど、何もやらないよりは、やったほうがいい。そこで、まず、「友だち100人プロジェクト」として、これまでよりもっと意識をして、回り始めました。全国全世界に、友だち100人作ろう~家族のようにお節介を焼け合える友だち、いざという時に助け合える友だちをまず作ろう、と思ったのです。

「被災地支援のチャリティコンサート」はせずに、「未来のためのつながり」を提案し、実践し始めました。

幸い、私自身、「家族のように思える大切な人達」と長い年月をかけて、ゆるりと培って来た経験があります。
「ただいま」と訊ねていける場所。
「おかえり」と迎えてくれる人々。
家族のように心配したり喜んだりできる関係。

被災地の人達の悩みとして、「自分達だけ故郷を離れるわけにはいかない」
という声も聞きました。

「じゃあ、もし、故郷と呼べる親密で特別な関係が、日常から複数あったら? もっとお互い縛り合うことなく、臨機応変に動けるのではないだろうか?」

夢の様な理想論かも知れませんが、でも、全く不可能ではないと思うのです。

私達が始めた「友だち100人プロジェクト」は友だちを作ろう=家族のように思える人とのつながり
でもありました。

こうして、少しずつ、私達の中に「セカンドホームタウン」プロジェクトが浮き上がって来たのです。

「鹿児島に拠点を移そう」という発想の中では、自分達だけの問題で終わらせるつもりは最初からなく、
「友だちを呼び、気兼ねなく滞在してもらえる場所を作ろう」という気持ちもあり、「友だち」とは「家族の様に大切に思える人達」であり、「家族が気兼ねなく集まれる場所」とはすなわち、「ホーム」でありホームがある場所とはすなわち、「ホームタウン」であるのです。というように、これまでの様々な出会いや意識が、次々とつながっていきました。

震災後に「自分に何ができるだろう」と寄付をする方が増えたという話がありますが、皆さんそれぞれが「act for japan」を模索し、実行されておられるのだと思います。
「セカンドホームタウン」プロジェクトは、私達にとっての「act for japan」であり、祖母のいた土地への恩返し=自分のもつ見えない財産の還元、でもあり、出会いの楽しさを味わいながら、劇場という枠を越えた私達のアートプロジェクトであり、町の皆さんとライフワークで行なう壮大なクリエイションでもあるのです。

自分自身、ダンスという活動を通して「身体が変われば、世界が変わる」という小さな実感を、日々、積み重ねているささやかで誠実な日常の活動の根底に、そうした大きなビジョンがあり、そこに向かうために実行する沢山のプロジェクトがあることで、毎日、充実した出会いが溢れて来ています。






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  1. 2012/07/15(日) 01:04:55|
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今日のつぶやき

大飯の反対デモ、太鼓と踊り的なかけ声と。次世代を見た気がした。新世代は、全闘のような闘い方はしない。時間までやって、終わったらきちんと片付けもして、日常へ帰る。それが新時代の新世代なんじゃないかと思った。

鹿児島知事選の不投票、50%の眠れる人々は、組織票に自分の1票を投じる旧世代なのだろうか?それとも新世代なのだろうか?興味深い。

自分の生活、自分が仕事をする会社の運営、そこに巨額のお金の一部が流れる仕組みの中にいる人々は、原発推進に1票を投じる。今の生活の維持が大事だと思っているから。今の生活の先にある、次世代以降の未来像に関係なく。

原発推進派も反対派も、自分の生活と自分の家族を守る為に、その意見を主張する。それぞれ異なる根拠を元にして。

「結局、お金がなければ、暮らせないじゃん」という仕組みが強力に根付けば根付く程、原発推進は力を増す。

そして実際、「お金がなければ暮らせないじゃん」という仕組みと思い込みは、実に揺るぎなく、人々の意識と社会の中に、根付き、着実に日々、育まれている。

元々、お金とは、社会の中の信用の代替。鉱物を利用したコイン以外の紙幣としてのお金そのものにはなんの価値もないが、人と人、社会の中での約束事として、実際にはない約束としての価値を作り上げている。

顔の見える生活の範囲内であれば、モノや情報や能力の対価交換で十分に暮らしていける。自分に何も交換できる資質や資源や産物がない時だけ、代わりにお金を使う。お金とは本来、対価交換のサークル内での、補足の為の道具であった。

単なる補足品が、その互換性の広さから、いつの間にか、魔法の杖のようなオールマイティの切り札となり、一番力を持ち、目的となり、同時に、新しい仕組み、補足物が主となり機能する仕組みができあがった。

対価交換を続けるには、バランス感覚や関係のメンテナンス、評価の維持、判断力、などなどアナログで面倒くさいが大切な作業や能力が常に必要とされるから、そうしたケアをしなくても使えるオールマイティのお金が、結局重宝され

いつの間にか、気がつけば多くの人々が、自分の判断力やバランス感覚といった能力も放棄して、すり込まれるがままに、「お金がなければ暮らせない」と思い込んでいる。

鹿児島の自然の中で、人間は十分に食っていける。海の幸、山の幸、材木、、、。家族にお金がいるとすれば、一番の懸念はおそらく、学校教育。金稼ぐ仕事につくために必要な関門として。「子どもの将来の為に」

「農家はキツいから、もっとお金の儲かる都会的な仕事に就かせたい」と思う親世代は多かったのだと思う。農業には、見えない喜びと苦労があり、それらはほぼ全く、お金にはならないから。

折角美味しい野菜を農薬や化学肥料を使わずに丁寧に作っても、形が悪かったり、虫食いだったりすると、「お金」にはならないから。だから、「お金」になるよう、形と見かけのきれいな野菜を作ることが要求される。

産物があれば、本当なら対価交換の仕組みの中では、豊かに暮らせるはずなのに、「お金」に換算する仕組みの中では、モノの本質とは別の視点で、産物の価値がゆがめられ、買いたたかれる。

「顔の見える暮らし」「レス(より少ない)・マネー」「セカンドホームタウン」自分の中では全部つながっている。

大隅半島の自然豊かな地域では、対価交換、評価経済が、しっかりと根付いている。「顔の見る暮らし」ができる。お金が主ではなく、補足物として存在することが可能になって来る。「レス・マネー」での生活が、よりやり易くなって来る。

家族間ではもともと、「お金」のやりとりは少なかった。何故か? その辺からも「セカンドホームタウン」プロジェクトはつながっている。



沢山のことを考え、問い続けながら、今日も生きている。







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  1. 2012/07/01(日) 07:32:32|
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「瓦礫は遺品」という側面

「受け入れるべきは、瓦礫ではなく、人間が先だろう!」といつも思うのだが、
日本国中でそれができていれば、
このお話の自殺者の方も死なずにすんだかもしれない。

2012/06/14ぬまゆのブログその3←


同じブログの方、

瓦礫問題、もう1つの側面~『 「 瓦礫 」 ではなく、自分たちの 「 家 」 だった のです。 その中に、「 遺品 」 だってあるのです。』

と書いているのを見つけた。

http://numayu.blogspot.com.au/2012/06/blog-post_08.html

こうした個人の情報は、個人の体験や感覚に基づいて書かれているので、

どこまで信憑性があるのかないのか、

それは未知数、というのが前提ではあるが、

ネット上のブログでしか得られない情報でもあるわけだ。

つまり、新聞では報道されない。

「瓦礫ではなく、遺品です」という現地からの実感としての言葉。





そして、こちらも、

大手メディアからは決して出ない記事

「大飯原発再稼働/「福島」を忘れ去るつもりか」

河北新報社社説←



世界は今や、猛スピードで動くパラレルワールドだ。









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  1. 2012/06/16(土) 09:00:16|
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less moneyの提案

田舎暮らしの評価経済、「ゼロ円」の背景には、
見えない信頼や評価やお礼のやりとりという前提があって初めて、
健全に継続することができる。

お金、って、じゃあ、なんだろう?

お金はないと困るが、代替えでできることも沢山ある。


今の経済社会で頭角を現しているということは、大なり小なり「原発マネー」あるいはそれと同類の資金の流れと関わっていると思って良いだろう。神話ありきの繁栄社会だったからだ。

私達の社会を物質的に繁栄させてくれた神話は、同時に未来を取り返しがつかない方向へと破壊しつつある。それに抗おうとしても、お金が生活基盤の主軸にある限り、どう頑張っても無理な話。

芳醇なお金の流れを生む近代化の仕組みは、最初の物質的な繁栄で人々を有頂天にさせたものの、

いつの間にか、がんじがらめに苦しい状態をそこここで生み出してしまっている。

「お金がないと生活できない」は、一体、いつから始まったのだろうか? かつては、貨幣経済と評価経済が混在して、ある種のバランスを保っていた。

日本の田舎には、評価経済、物々交換、などがまだまだ健在。そこに 可能性と健全性の魅力を感じる。田舎でも、都会化してしまっているコミュニティは例外。そして、そういう町は増えて来ている。残念なことに。それを人は「発展」と呼ぶ。

お金に主軸を受け渡さない生活はできないものだろうか? 
そこで提案してみる考え方が、
no moneyのゼロではなく、less money。
貨幣経済が続いている限り、お金は必要。
だけど、最小限でいい。評価経済を主軸として、補助としての貨幣。
そういう考え方。

less moneyでは、見えるもの、見えないものに関わらず、人のつながりの中での直接的な物々交換が主軸。どうしても返せる何かがない時にだけ、貨幣は使われる。

no moneyのゼロではないので、もらうだけもらって、何も返さない、というのではない。何かもらったら、必ず何か返す。作ったもの、自分の能力や仕事、人間関係など、「何か」は必ずあるはずだ。どうしてもなかった時だけ、お金で返す。

less moneyの中では、お金は単なる補助券だ。


「お金が全て」

ではなく、

「自分の中に、何も渡せるモノがない人が、仕方なく代替えとして渡すものとしてのお金」

という評価経済が主流だとしたら、

私達の社会も、もう少し健全な道を歩むことができるのかもしれない。







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  1. 2012/06/15(金) 09:00:11|
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Happy Machine

私は幸せになりたかったので、そのための製造機械を作ることにした。
まず始めに、そのことを話すと、皆が皆、無理だと言う。

風を切ってぐいぐい生きているかの様な印象の猫田でさえ、
それを言うと、ふふんと鼻をかみながらこう言った。
まあやってみればわかるよ。オレなんかもう10年もあくせく頑張ってこの有様だ」
私にはその意味が分からなかったが、成功者と見られている彼の言い方には密かな希望喪失が感じられ、そのことがとても意外であり、自分にとっても失意であった。

それでもあきらめず、部品を集めては設計図を描くのは楽しかった。
時間とともにいつの間にか必要なものは揃い、つなげたり切ったり。
毎日少しずつ勤勉に作業に取り組んだ。

そしてマシーンは完成した。
作業場には少し大きすぎるが、これでシアワセになれるならそれでも良い。
まずは、このマシーンにシアワセの定義を設定しなければならない。

シアワセとは?

そこで私ははたと考え込む。
友人の熊野が折よく訊ねて来たので、素知らぬ振りをして聞いてみた。

「ねえ君。シアワセの定義ってなんだろね?」

熊野はソファに埋め込んだ大きな図体をぐいと持ち上げて、小さな目をぎょろりと開いてこちらを見た。

「シアワセの定義? どうしてまたそんなこと聞くんだね?」

「いや、ふと思いついたんだよ。 皆、ヒトはシアワセになりたいというけれど、それじゃ一体、シアワセってなんだろうか?ってね」

熊野は安心したようにまたソファにカラダを埋め込むとこう言った。

「そりゃ君、腹いっぱい蜂蜜を食べれることだろう」

私は熊野の答えに迷いがないことに内心ひどく驚き、感心した。






アナタにとって、シアワセの定義とはなんですか?









何年か前に書いたショート記述です。

時々、お話のカケラの様な文章が浮かびます。




私達にとって、幸せって、なんでしょう?


方法論でつい、私達は道に迷ってしまう。
本質的な答えを問いかけられているような、そんな時代です。







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  1. 2012/06/05(火) 19:51:13|
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プロフィール

odorujou

Author:odorujou
コンテンポラリーダンス作家
振付家/ダンサー
Odorujouディレクター
2009年ソウル国際振付ファスティバルにて、外国人特別賞受賞。

■ダンサー/振付家■
「長い手足、自由度の高い身体、それを繊細にもダイナミックにも動かし、半径1mの円の中で踊り続けて飽きさせない身体のボキャブラリーを持っている。なのに、いきなりマヌケなネタを平気でかます面もあり、気が抜けない」(乗越たかお著:コンテンポラリーダンス徹底ガイド)

■プロデュース■
「Odorujou」時々主宰。すなわち、わくわく心躍る企画担当。「個性ある身体」を起点に、皆さんの問題解決や目標に向けて真剣に取り組み、社会貢献を目指します。
創造的身体資源の開発と芸術文化環境の向上は、世に恩恵をもたらし、個人のより良い生活と、豊かな社会作りができるのではないか?

身体不在の現代社会において、コンテンポラリーダンスが包有する、社会にもたらすであろう様々な有益な可能性と、その価値を信じて活動中。

■芸術環境向上企画■
海外の話を聞く会
http://odorujou.blog100.fc2.com/blog-category-8.html
こんなことやってみました。
Independent Artists Japan TPAM2010
http://artistsjapan.blog29.fc2.com/
http://blogs.yahoo.co.jp/dancartscom

■願望
週末はひっそりとする東トーキョー暮らしを愛おしく思う。温泉&旨いものツアー希望。



■WSクラス講師■
基礎身体能力の開発や、即興(インプロ)、コミュニケーション学習、コンテンポラリーダンスなど、様々なアプローチから提案するクリエイティブなWSは、主催者側の要望に添ってオーダーメイドで作成され、語学力と柔軟な発想力にて随時対応可能。
WS対象は、ダンサーやアーティストはもちろん、ダンス未経験の老若男女、学生、子ども、日本人から外人(英語圏)まで、自分のダンスを踊りたい人、人とのコミュニケーションを楽しみたい人、、どなたでも大丈夫。

■クリエイション■
ソロパフォーマンス、コラボレーション、グループ作品の上演、振付なども随時対応。

■最近多く担うお役目
何かと何かを繋ぐ。
全体の中でバランスを取り、足りないものを提供する。
場を浄化させる。
物事を前向きに進ませ、発展させる為の介助。


■お問い合わせはこちら
OdorujouまたはJOU宛にどうぞ。
odorujou@yahoo.co.jp
http://odorujou.net

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